家康の「伊賀越え」の道をゆく 『京田辺~宇治田原を中心に』
信長の招きで堺に滞在していた家康は「本能寺の変」を知り、一旦は信長の後を追う覚悟をしたが、家臣に止められ急ぎ三河に戻ることにした。家康一行は明智方や一揆の襲撃におびえつつ、運命を変えたといわれる「伊賀越えの道」を選び、険しい山道を逃避行。白子浜から伊勢湾を渡り三河の岡崎城に無事に帰着する。
Updated Date : 2023-11-19 21:30:47
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家康の「伊賀越え」の足跡は、京田辺の観音寺を振り出しに、寺院の見どころなども交えながら宇治田原の遍照寺まで。
家康公 こしかけの石
徳川家康が田原郷で最後に立ち寄り休憩した遍照院の庭石。
はて? 家康とは似ても似つかぬ男。
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大御堂観音寺(おおみどうかんのんじ)の石標
京田辺市普賢寺にあり、国宝十一面観音立像で有名(全国で7体しかない)。
家康や穴山梅雪一行もこの付近を通ったといわれている。
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大御堂観音寺(おおみどうかんのんじ)の本堂
圧巻の国宝・十一面観音立像はもとより、東大寺・二月堂のお水取りの竹送のイベント関連も見落とせない(正面左側に見えるのがお水取りの御用竹)。
「注」「竹送り」は、毎年2月11日の早朝、普賢寺地区から竹を掘り起こし、当寺で奈良までの道中安全祈願をした後、参加者が肩で担ぎ運ぶ行事(近年はトラックで運んでいる由)。
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「草内の渡し場跡」
宇治田原に出る主要な渡し場で、この付近で家康一行のしんがりを務めた家康の家臣・穴山梅雪が、一揆に襲われ落命したといわれている。梅雪を憐み飯岡の村人が手厚く葬ったと伝わり、飯岡の共同墓地内に墓がある。
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木津川
行く川の流れは絶えずして・・。
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山口城跡の標識(車中より撮影したもの)
矢印の方向(宇治田原町郷之口田中)に山口城址(やまぐちじょうあと)の説明板がある。
山口城は織田信長の命で山口甚助秀康が築いた城。徳川家康の逃避行を助けた城としても知られるが、山口氏は関ヶ原の戦いで滅び、廃城となった。
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けものみち(古道)
90才を超える老体には厳しい峠道(約90分)。同行の皆さんにご迷惑をかけてはならじと、涙を呑んでここはパスする。幸いにも顔なじみの森さんがおられたので、地獄で仏とばかりお願いして撮影していただいたのが、さわりの部分といえる写真「けものみち」と「分岐点」の2枚である。
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長尾峠の分岐点
信楽街道(左)と長尾峠から東海道へ通じる道の分岐点。
まさに「 どうする、家康 」もし左の道を行っていたら!?
写真を拡大すると緑色の看板がある。「神君」はこの信楽への道をえらんだという。
「注」神君・・偉大な功績のあった高徳の君主に対する敬称、 徳川家康の死後の敬称。
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遍照院
「伊賀越え」の道すがら家康が立ち寄ったという。樹齢500年の老紅梅と高野槇が往時を偲ぶことができる。「家康公の腰かけの石」がある。
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京田辺市大御堂観音寺
34.7953924595614
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